~小松ゆかりの幕末の志士~

2024年3月12日 07時18分

田岡俊三郎 近藤篤山 黒川中将見‥目玉に足(フットワークで見る)視‥示すように視る(細部に気づく)観‥心の目で観る(観察力を養う)看‥目に手を添える(労りの看取り)小松に篤山先生を呼んで来た名奉行の竹鼻正脩(せいしゅう)を忘れてはなりませんが、篤山先生を祖とする小松の学風が育てた偉人の一人、陸軍中将・黒川通軌(みちのり)をご存知でしょうか。小松藩では幕末に「勤王の志士」を輩出しており、「禁門の変」で奮闘した田岡俊三郎等が有名ですが、勲一等旭日大綬章を受章、明治20(1887)年に男爵を叙爵し、華族となる黒川通軌中将もその一人です。近藤篤山先生の長子・南海先生に学び田岡俊三郎とともに幕末の国事に奔走した後、新政府に出仕、明治6年には陸軍大佐に補されます。薩長土肥が要職を占めていた当時は、異例の人事で、彼の有能さを物語っています。西南の役でも、第2旅団等を率い、九州各地を転戦した記録が数多く残っています。その功績で陸軍少将に昇進し、明治18(1885)には中将となります。その後、名古屋鎮台司令官、第3、第4師団長などを経て、明治26(1893)年、東宮武官長(皇太子の軍務について奉仕する職)兼東宮大夫に就任し、皇太子(後の大正天皇)のそばに仕えます。この要職を約4年間勤め、病気のため休職・帰郷し、明治36(1903)年に小松で没しました。養正ケ丘にある墓前には、 大正天皇から下賜された石灯籠一対があります。篤志の坂に立てていただいた3枚の看板を見て登校し、輝かしく確かな未来の基盤を築くために今日一日に全力を尽くしましょう!